宮廷建築家長シナン・ビン・アブドゥルメンナン――『ラーレ』誌(1988年12月)

ネディームはイスタンブールを描いたカスィーデ(頌詩)の中で、

「このイスタンブールの都は比類なく貴きもの、
その石ひとつにペルシアの国すべてを捧げても惜しくない。
二つの海の間にある比類なき一粒の宝石、
世界を照らす太陽と天秤にかけてもふさわしい。」

と詠っている……
ネディームが「その石ひとつにペルシアの国すべてを」捧げたのも当然であるイスタンブールに刻印を押した、「世界を照らす太陽と天秤にかけるにふさわしい」、すなわち「世界を照らす太陽と比べうる」建築家が私たちにもいる。その時代が彼に与えた称号でいえば、Ayn-ı â'yân-ı mühendisîn, Zeyn-i erkân-ı müessisîn, Mîmar-ı sultânî, Muailim-i hâkâni, Üstâd-ı esâtizetü'z-zemân, Reîs-i cehâbizeti'd-devrân, Öklidisi'l-asr ve'I-avan, Mühendisân-ı devrân, Pesendîde-i cihan, Mîmâr-ı bî-akran, Sermîmâran, Koca Mîmâr, Sinan bin Abdülmennân(シナン・ビン・アブドゥルメンナーン)……(1)

偉大な人物は偉大な社会から生まれる。エベレスト山がエベレスト山であるのは、ヒマラヤの上にあるからであって……「ゴール低地」にあるからではない! 16世紀は、学問、文学、芸術のあらゆる分野における頂点をもって、オスマン文明の古典主義が確立された時代である。既存の文化の豊かさと水準のおかげで、偉大な才能のために社会ではすべてが整っていた。ミマール・シナンもまた、オスマン文明が頂点に達した時代における、既存の文化の建築における噴出、一つの爆発なのである。

何世紀にもわたって濾過されてきた共同体の意識と安定した社会構造は、既存の文化において、あらゆる要素が互いに呼応し合う一つの「全体」となることを可能にし、国家の力とその損なわれていない構造が建築に反映されて、この統合の意識の中心を建築が形づくったのである。 316の建物によって「コンスタンティニイェをイスタンブールに」変えた大シナンは、建築において、自らの活動領域の中で活用しうる可能性を提供できる国家の絶頂期に、時代が長く練り上げてきた限られた材料と技術的可能性を今一度吟味し直し、あらゆる建築的可能性を、繊細さ、技巧、趣味、感性、そして偉大な美意識をもって試みたのである。

大シナンが建築の天才であったことは明らかである。しかし、最も優れた才能でさえ自ずから作品を生み出せるわけではなく、優れた作品を生み出すことが、良質で確かな教育とともに経験と機会に支えられていることも明白である。16 世紀には、宮廷建築家組合(ハッサ・ミマルラル・オジャウ)によって、建築をはじめほぼすべての芸術分野が一定の組織のもとに置かれ、達成された発展がオスマン国家の全土で一斉に実施に移されたことがわかる。この大組織、その組織化、そして中央集権的な体制の中で見るとき、オスマン建築におけるシナン時代を 説明することは容易になる。時は16世紀……写真機もカメラも、スライドも発明されておらず、透視図法のさまざまな手法も確立されていなかった。しかし大建築家の驚くべき想像力と記憶力は、目にしたすべてを記憶し、その天賦の才の坩堝の中で消化した後、新たな構成として、まったく別の個性をもつ作品となった……。50歳までの生涯を通じて、遠征で訪れた土地の作品を注意深く研究し、知識と美的見解を浄化と鍛錬の篩にかけ、もともと天性として備えていた並外れた創造力によって、統合的な意識に到達したのである。広く伝えられるところでは、最初の作品もこの年齢で生み出したという。

ミマール・シナンに至るまでに建てられた作品には、彼の様式に近づこうとする傾向がすぐに見てとれる。セルジューク朝、君侯国時代および初期オスマン時代の建築における試みが取捨選択されることによって、建築の全体と細部との間に本来あるべき必然的な関係は完全には確立されていなかったものの、一定の建築的統一性が築かれ、エディルネのユチ・シェレフェリ・モスクやバヤズィト・モスクのような中央平面型の記念碑的建築が建てられた。師弟関係の中で一つの鎖を形づくるトルコ・イスラーム建築の重要な建物を年代順に並べてみれば、この発展がアヤソフィアのような外部の影響によって突然生じたのではなく、自らの歴史的歩みの中で、完成へ向かって自然な歩みをたどったことがはっきりとわかる。まさに共通の精神と、時を経て濾過されてきた伝統の力の結果として、これらすべての影響と経験はシナンの手によって今一度選り分けられ、建築作品は最も細かな細部に至るまで一つの造形的全体として捉えうる形をとり始める。建築様式と空間の統一性という点で、トルコ・イスラーム建築の自らの歴史的歩みにおける発展の到達点であるシナンが、すべての建物で到達しようと努めた建築美学、造形的統一性、そして中央平面の構想は、エディルネのセリミエにおいて 最も完璧な表現を見いだした。

最も適した時と場で育ち、極めて恵まれた条件で仕事をした芸術家であるシナンは、大規模な建設組織の長として、卓越した一人の 組織者であり優れた師として、「宮廷建築家組合」の「首席建築家」となった。「建築家、親方、職長そして徒弟」という序列で、あらゆる建設の力が彼の配下にあった。もちろん、このような組織の中で、国中の至るところに建てられた大小500近い作品のすべてをシナンが監督したと言うことはできない。これらの作品はイスタンブールで設計されて現地へ送られ、あるいは現地にいる建築家や職人によって施工された。地方のいくつかの建物に見られる地域的要素や、寸法の比例と調和の乱れは、この考えを裏づけるものである。50年以上にわたる時間と活動の軸の中で、それまでに建てられたものとは異なる新しいものを生み出そうとした人々は、古典化した構造の一部を断念せざるを得なかった。実際、小さな変化を伴いながら、チューリップ時代に始まる自己否定の時代まで続いたこの建築様式は、骨格は同じでありながら、別の装いをまとわされる形で今日まで続いてきた。
この大きな関係の連鎖の中では、たとえ他人の作品であっても、その時代のいかなる建物もシナンから切り離して扱うことは不可能である。これらすべてを踏まえれば、一方では「人間」として、他方では「可能性と影響」として、一つのシナン時代について語ることができる。(2) 

大建築家が自ら建設を監督した作品では、建物の完璧な構造と架構に加え、小さな建築要素や細部にも実に美しい比例と合理的な解決が見られ、建物を深く調べなくとも、その建築家の芸術的力量と健全な思考を理解することができる(図1、2、3、4参照)。

スレイマニエ・モスクの基礎は、内部を楽に歩くことができる格子状のシステムになっている。基礎内の通路からはスレイマニエのすべての付属施設に水を分配する貯水槽へ行くことができ、またモスクの床の中央部分では、これらの通路の上に木製の蓋付きの通気口が設けられて、一種の「空調」が実現されている。今日、残念ながらその一部は廃止され、残っているものも石の蓋で覆われた状態にある。蓋を開けたときに生じる空気の流れは驚くべきものである。基礎の石造部分の下端には、木製の格子で補強された厚さ70~80 cmの「ホラサン」(煉瓦粉入り石灰モルタル)が、臥梁としてすべての基礎系統を巡っている。この基礎の形式によって建物の耐震性も確保されている(図5、6参照)。

私見によれば、シナンの水利工学の分野における様々な作品は、彼が建てた建物やモスクと同じくらい重要である。モスクから橋まで、水路からダムまで、あらゆる種類の建設で作品を残したシナンの水利工学におけるいくつかの解決策は、技術的知識や道具、材料の便宜が完成された今日の工学の基準から見ても並外れたものである。手がけたあらゆる仕事において、既知のものの最も完璧な形に到達しただけでなく、未知のものをも巧みに考案して作品を生み出したのである。 ミマール・シナンにおいては、すべてが実にあるべき場所に収まり、ふさわしくあるので、工学が建築を損なうこともなければ、建築を実現するために工学がおろそかにされることもない。(3)
材料の選択と使用においては、ゲーテの「建築は凍れる音楽である」という定義のとおり、ちょうど音楽におけるリズム型(ウスール)や旋法(マカーム)のように、建築要素の反復と相互の調和がある。この比例と調和こそが、中国の哲学者タオ・テ(老子)の定義による 「建築の目的は、建物の壁の内側にある空虚である」という考え方のもとで、建築 空間と、空間が人間に与える雰囲気、感覚、そして精神の均衡をもたらすのである。その作品の一つ一つが比例と均整の記念碑……、その空間と容積の一つ一つが均衡の詩……、その道において唯一無二、その技において明らか……、その線の一本一本が魂になじみ、その建物の一つ一つが比類ない……。

シナンの口述をサーイー・チェレビーが筆記した『テズキレトゥル・ビュンヤーン』に(4) 記されているところによれば、スレイマン大帝がイスタンブールに水を引くことを志し、以前クルクチェシュメ水道の 水がどのように引かれたのかを尋ねたところ、「歴史家たちの言うところによれば」(5) として、その物語が語られた。すると大帝は「あらゆる技芸には名匠があり、あらゆるビーストゥーン(6)にはフェルハードがいる。この仕事は建築家と相談せねばならぬ。必要なのはその実践であって、学識ではない」と言って、「水道の諸事」を「シナン・アガに命じた」のである。ミマール・シナンは、問題にこのように実際的に取り組み、判断を干渉することなく芸術家に委ねることのできる、自らもまた芸術家である君主に仕えていたのである。

「技ある者の価値を知ることもまた技である」

いつの時代もそうであるように、嫉妬と妬みからクルクチェシュメの水は集められないと言い、「すべての水路が水の証となるわけではなく、すべての緑地に清らかな泉があるわけでもないことは明らかだ」と噂する者がいた一方で、クルクチェシュメ水道の「建設監督官(エミーン・イ・ビナー)」が君主に言ったように、「下僕たる建築家アガは水の技術に熟達した完全なる名匠であり、地中に隠れた水を地上の水のごとく知っております」と評価し称賛する者たちもいた。自らが置かれた恵まれた状況をよく理解していたシナンは、

「されど我が技においてはかなりの名匠なり、
ホスローに仕えるフェルハードなり」と言い、
「神の恩寵によって幾日も働き、
めでたくすべてを成し遂げることができた」

という考えのもと、大いなる帰依の心をもって働き、

「恵み深き神に感謝と恩義を捧げん、
そのしもべを恩恵の器とされたがゆえに」

という安らぎを感じつつ、オスマン古典期の奇跡の建築の創始者となったのである。

大シナンは、古典オスマン建築における建築的・構造的要素を明確に規則化し、技術用語でいえば「定式化」した。石造材料で架け渡された広いスパンと建物の高さを考慮すれば、これほど細い断面が単なる試行錯誤や経験だけで実現されたと認めることは不可能である。構造の定式化、ドームや架構の計算がまだ知られていなかった時代には、石造材料に適した、必ずや合理的な「単位」が必要であった。この単位とは、建築における均整と調和とともに、今日の鉄筋コンクリートの柱断面の決定のように、構造的な均衡と強度を確保し、地震時の建物の挙動を形づくるもので、当時の用語で「ヴァーヒド・イ・ミマーリー(建築単位)」として知られる、柱頭の幅である。この建築単位は9等分され、さらにそれぞれが4等分される。建築単位はまた大小二つに分けられ、二つの限界値が選ばれる。建築単位を二分してできる比は6/9と5.5/9であり、これらの比は「黄金比」に(7) 非常に近い。柱の高さ、アーチのスパン、蛇腹の位置と厚さ、ドームの周長などは、すべてこの寸法を考慮して構成される。たとえば柱の最下部の直径は建築単位の6/9、上部は5.5/9である。柱の高さは、設計される建物に応じて定められた建築単位の6/9に、各柱の下部半径の10から18までの倍数を掛けて求められる。あるいは逆の操作を行い、建物の高さから出発して柱の高さを決め、建築単位を定める。

その公式は次のとおりである。

h柱= [(6/9) (建築単位)] [(k=10...18) (r柱)]

キョシュク(東屋)や泉亭のように上部の覆いが軽い小さな建物では、柱の高さのために建築単位の6/9に半径の26倍まで掛けることができるが、この数は12倍の半径を下回ってはならない。柱頭の高さは、柱の環帯を含めて直径に等しくつくられる。柱脚の高さは様々であるが、建築単位の3/9を超えてはならず、1/9を下回ってはならない。アーチのスパンは柱頭の高さの1/2を基準として計算される。

オスマン建築の要素は、「ミマーリー・イ・マフルーティー、ミマーリー・イ・ミュステヴィーおよびミマーリー・イ・ミュジェヴヘリー」と名づけられ、それぞれ比例と装飾が異なる三つの部類に分けて考えられてきた。主にモスクの下層部や簡素であることが望まれる建物で用いられた「ミマーリー・イ・マフルーティー」では、柱の高さは柱頭を含めて6建築単位とされた。完全にシナンの考案である「ミマーリー・イ・ミュステヴィー様式」は、建物の外側への張り出し部分や地下の空間で用いられ、いかなる装飾も施されなかった。柱の高さは柱脚と柱頭を含めて10建築単位とされ、この比例は小さな建物では一切用いられなかった。建築家ハイレッティンのもとで成熟し、シナンにおいて最終的な形をとった「ミマーリー・イ・ミュジェヴヘリー」は、オスマン建築の最も完璧な様式となった。建物が壮麗かつ優美に見えることが望まれる箇所で、ムカルナスをはじめあらゆる装飾とともに用いられたこの建築様式は、小規模な建物では内部にのみ用いられた。一つの建物においてこれらの建築要素の位置や用い方も一定の規則に従っていた。たとえば「ミマーリー・イ・ミュステヴィー」は「ミマーリー・イ・ミュジェヴヘリー」の上に置かれた。(8) こうして最も細かな細部に至るまで建築的統一性が確保されていたのである。

学者は芸術に近づくほどに、芸術家は学問に近づくほどに完成に至る。 なぜなら自然そのものが神の作品、すなわち神の芸術だからである。
「文様を讃えることは、文様師を讃えることに帰し、
文様を 貶めることは、文様師を貶めることに帰す」(9) 

という喜びのもと、自然と芸術は互いに魅了し合う二人の恋人のようである。建築は単なる建設の芸術ではなく、同時に創作と構成の芸術でもある。ミマール・シナンが用いた寸法の多くは、自然から得られた比である「黄金 比」に適合している。
スレイマニエ・モスクにおける大建築家の円熟した建築には、静けさと気品を表す52°の自然な角度(10)と、簡素で調和のとれたシルエットがある。中央ドームとその周囲に実に均整のとれた形を与えることに成功しており、建物は地面から段階的に立ち上がり、ついにはあの壮大な「一者」において閉じられる。中央ドームと半ドームおよびその他のドームとの関係は、神秘主義(タサウウフ)における「一の中の多、多の中の一」の秘義の見事な例として、「細部から壮大な一者への到達と集中、一者から細部への回帰と帰還」という形で続く、限りない美しさをもつ精巧な鎖なのである。

ミマール・シナンは、トルコ・イスラーム世界のあらゆる価値判断を受け入れ、消化し、それらを自らの芸術において表現した芸術家である。エディルネのセリミエ・モスクを初めて見たとき、ムアッズィン席(ミュエッズィン・マフフィリ)がモスクのちょうど中央、ドームの頂点の投影位置にあることに、私たちは大いに考えさせられた。というのも、ムアッズィン席は、シナン以前に建てられたすべてのモスクにおいて、常に片隅に置かれた建築要素だったからである。シナンほどの芸術家が、その最も円熟した時期に、セリミエによって最も完璧な形で到達した中央平面の構想の、この最も野心的な建物において、空間の中に生じる効果を損なう焦点をつくり出したことが、私たちの頭を悩ませた。それどころか、席のほぼ正方形の平面から外へはみ出し、半円形をなして隅に置かれた奇妙な階段には、まったく意味を見いだせなかった。ムカルナス装飾のある半円柱の中から出てくる階段は、このようにつくらなくてもよかったはずである。正方形平面からのはみ出しに至っては、まったく不必要であった。しかし、短い調査の後に私たちが到達した結論は驚くべきものであった。

大シナンは、その傑作であるセリミエ・モスクにおいて、ムアッズィン席をドームのちょうど中心とその投影位置に設けることで、モスク全体がアルシュ(神の玉座)と宇宙を、ムアッズィン席が、アルシュの投影位置にある「バイト・アル・マアムール(天上の館)」とともに、その屋根の上でビラール・ハベシーが最初のアザーンを唱えたカアバを象徴していることを表現していたのである。正方形平面から外へ張り出した半円は、カアバに接する「ハティーム」と呼ばれる「半円形の」部分を表していた(図7)。

シナンが本当にこの考えのもとでモスクとムアッズィン席をつくったのかを確かめるためには、シナンを育んだイスラームの宗教と神秘主義思想の源泉に当たる必要がある。

聖クルアーンには、(11) 「天使たちはその四方にいる。その日、八(人の天使)が彼らの上に汝の主の玉座を担う」(真実章、69章17節)とあり、あるハディースには「彼らは今日は四人であるが、審判の日には、アッラーが彼らを別の四人の天使で補強し、八人となる」とある。『マーリフェトナーメ』には(12) 「ハメレ・イ・アルシュ、すなわち至高の玉座を担う天使は四人である。審判の日にはさらに四人の大天使が創造され、玉座を担う者は八人となるであろう」と述べられている。セリミエでも、アルシュを象徴する中央ドームを支える八本の脚柱のうち、四本は独立しており、キブラ軸上にある他の四本はモスクの外壁に接している。外部においても、ドームを支えるこれら八本の柱は、ドームの縁にはっきりと表現されている(図8参照)。

カアバは、神(ハック)と「親しみ(ユンスィイェト)」をもつべき「人間(インサーン)」に(13) その創造の目的と秘義を思い起こさせ、本来の故郷から疎遠にならぬよう教え諭す、神の導きの象徴である。葦原から切り離されたがゆえに別離を嘆く「ネイ(葦笛)」のように、人間の本源がこの世に属さないのと同様、カアバもまた、タウヒード(神の唯一性)と神の力の内なる意味に満ちた、彼岸の世界のしるしである神聖な建造物なのである。

カアバの歴史は『マーリフェトナーメ』に(14)次のように語られている。「バイト・アル・マアムールは、フィルダウスの楽園において赤いルビーでできた「高いドーム」であった。至高なる神は、アーダム(アダム)を楽園から地上に降ろし、その悔悟を受け入れた後、彼への恩寵として、バイト・アル・マアムールを楽園からこの世の、カアバのある場所へ、アーダムのための楽園の形見として、彼がその周りを巡り参詣するために降ろされた。一つは東へ、一つは西へ開く二つの扉があった。バイト・アル・マアムールの中には光でできた三つのランプがあった。これらのランプが当時照らすことのできた範囲が、今の「カアバの聖域(ハラム)」である。至高なる神の命により、七層の天の天使たちが交代で降りてきて、アーダムとともにバイト・アル・マアムールを巡っていた。バイト・アル・マアムールはアーダムからヌーフ(ノア)の時代まで地上にあった。大洪水の前に天へ引き上げられた。審判の日までそこにとどまり、その後は再び楽園にある元の場所へ引き上げられるであろう。
バイト・アル・マアムールが地上にあった場所に、イブラーヒーム(アブラハム)が至高なる神の命により聖なる館(バイト・シャリーフ)を建てた。もしバイト・アル・マアムールが天から落ちれば、ちょうど偉大なるカアバの上に落ちる。地上の聖なる館(カアバ)と天上のバイト・アル・マアムールの間が聖域(ハラム・シャリーフ)である。現在カアバの壁にあって口づけされるハジャル・アスアド(祝福された石)は、バイト・アル・マアムールの形見として残ったものである。ハジャル・アスアドは赤いルビーであったが、大洪水の際、至高なる神の命によりハジャル・アスワド(黒石)となった」。またあるハディースには、「カアバはアルシュの下にあるモスク(バイト・アル・マアムール)とまさに一直線上にあり、そのモスクから石を落とせばカアバの屋根に落ちるほどである」(15) と述べられている。エディルネのセリミエにおいても、ムアッズィン席は中央ドームの頂部要石の真下の投影位置にある。

イブラーヒームによってバイト・アル・マアムールの跡に建てられたカアバは、ジャーヒリーヤ時代、預言者がまだ35歳であった頃、覆い(16)に火がついたことによる火災と、その後の洪水に見舞われたため、壁が損壊し、再建された。しかし財政上の理由からカアバの 敷地を狭め、一部を外に残し、そこもカアバの一部であることを示すために周囲に壁を巡らせた。(17)両側にそれぞれ入口が残されたこの壁は、カアバの北西の壁のちょうど向かいにある。「ヒジュル、ヒジュル・イスマーイール」と呼ばれるこの部分が、現在「ハティーム」として知られる場所である。「カアバの一部とみなされるため、タワーフ(周回)の際にはここに足を踏み入れず、その外側を回る。ハージャル(ハガル)とイスマーイールもここに葬られている。(18) ヒジュルは半円形として知られる。(19) まさにセリミエでは、空間のちょうど中央にあるムアッズィン席に、この記述にそのまま合致する実例を見るのである。しかも、ムアッズィン席に接するこの半円形の張り出しは、カアバの壁に接する「ハティーム」と同様に北西の方向にある。

カアバは完全な正方形ではなく、すべての辺の長さが互いに異なる。(20)私たちの注意を引いたもう一つの点は、シナンがムアッズィン席においてカアバの平面寸法のちょうど半分を用いていることである。カアバにおける12 mの長さは、ムアッズィン席では6 mとして現れる。またムアッズィン席もカアバと同様に完全な正方形ではなく、もう一方の辺は5.81 mで、カアバのもう一方の辺の半分ほどである。この完全な正方形ではない平面を構成する小柱の脚部は、あたかも境界の外へはみ出さないことを表現するかのように、平面の内側に向けて置かれている。隅の小柱も両方向に向き合いつつ、やはり内向きになっている(図9参照)。

シナンの口述をサーイー・チェレビーが筆記したもう 一つの作品である『テズキレトゥル・エブニイェ』には、

「主に感謝を、主はその恩寵を示された、
無であった宇宙を有らしめられた。
水の上に大地の礎を据え、
七層の天を重ねられた」

とある。『フスース・アル・ヒカム』には(21) 「万物の本源は水である。 玉座(アルシュ)が水の上にいかに据えられているかを見ないのか。宇宙は水から生じ、水の上に立ち上がったからである。そうであれば、水は玉座を下から守っているのである」と述べられている。ここでいうアルシュとは、後に説明するように、物質世界の全体である存在のことである。さて、次の点に注目しよう。カアバの、高さ25 cmで外側に30 cmほど張り出した基部は「シャードゥルヴァン」と呼ばれる。(22)シャードゥルヴァンが意味するのも「水」である。セリミエでは、ドームの投影位置にある、ムアッズィン席のちょうど真下、ドームの焦点にも一つのシャードゥルヴァン(泉水)がある。

私見によれば、ミマール・シナンは、聖モスク(ハラム・シャリーフ)のドームの修復と巡礼のためにメッカへ赴いた際、カアバを徹底的に調査したに違いない。(23) 
また『テズキレトゥル・エブニイェ』にも 『テズキレトゥル・ビュンヤーン』にも、

「柱なくしてこの九つの天蓋を支え、
太陽の球を宙に吊るされた。
力の御手もて粘土をこね、
アーダムの身に礎を据えられた」(24)
「眼差しは存在の宮殿の眺めとなり、
眉はそこに刻まれた銘文となった。
アーダムの体が築かれたとき、
神の友(ハリールッラー)はカアバを建てた」

とある。アブドゥルケリム・ジーリーの『インサーン・カーミル(完全人間)』には、「バイト・アル・マアムールとは、繁栄させられた館という意味である。これはアッラーがご自身のために定められた場所である。それゆえにそれを、

地上から天へと引き上げられた。これに類するものは人間の心である。なぜなら人間の心は神(ハック)の場だからである。この人間という鋳型の中の身体は、人間存在のうちにあるすべてを包含している。魂、理性、心などである。この世界もまた、人間の内にある玉座の身体(ジスム・イ・アルシュ)に類するものである。絶対の玉座は、そのすべての部分を包含するものとして、世界の像であり身体である。アルシュは普遍的身体(ジスム・イ・キュッリー)である」と述べられている。(25)これらの知見から出発してスレイマニエとセリミエの両モスクの比例を調べると、次のような寸法が現れる。セリミエでは、ドームを支える八本の脚柱の中心を通る円の直径は45アルシュンである。ドームの縁は床から45アルシュン、ミナレットの頂華(アレム)はそこから66アルシュン(26)の高さにある。スレイマニエでは、床からドームの起拱点までの高さは45アルシュン、ドームの頂華は66アルシュンの高さにある。アブジャド数値法によれば、45は「アーダム(人間)」、66は「アッラー」という語に相当する。こうしてミマール・シナンは、アブドゥルケリム・ジーリーの文章に見られ、シェイフ・ガーリブが

「己が本質をよく見よ、汝こそ世界の精髄なり、
万有の瞳たる人間なり、汝は」(27)

という対句で表現した 思想を、自らの建築において語ったのである。さらに、セリミエの ドームには、 タウヒードの信仰を数語 で極めて包括的に要約 する「言え、アッラーは唯一なる御方、アッラーは自存者(サマド)である(万物はその存在と存続を彼に依存し、彼は何ものにも依存しない。万物が頼り、助けを求める唯一の存在は彼である)。彼は生むこともなく、また(他から)生まれることもない。彼に匹敵するものは何もない」(112章1~4節)という意味の純正章(イフラース章)が書かれ、その後に「高貴なる使徒はこれを伝えた。われらもその証人の一人とならん」という文言が加えられていること、そしてスレイマニエ・モスクのドームには創造者章(ファーティル章、35章41節)の「アッラーは天と地が消え去らないよう、それらを支えておられる。もしそれらが消え去るならば、彼の後には誰もそれらを支えることはできない。まことに彼は寛容にして、よく赦される御方である」という意味の第41節が書かれていることは、意味深い。
『テズキレトゥル・ビュンヤーン』には、スレイマニエについて、

「この均整のとれたモスクはカアバとなり、
四本の柱はそこで四人の友(四正統カリフ)となった。
四つの柱の上に立つイスラームの家は、
四人の友によって堅固さを得た。
願わくは、嘆き悲しむこのしもべに、
彼らの面目によって救いのあらんことを

……そしてかの聖なるモスクのドーム群は、優美の海の泡のように飾られ、その高きドームは、回転する天空と金色に彩られた世界の上に輝く光に満ちた太陽のように明るく際立ち、ミナレットとドームは、イスラームのドームである選ばれし愛される者(ハビーブ・イ・ムフタール)と四人の友の姿になぞらえられていた」(28) と述べられている。ここに示された記述に基づいてドームとミナレットの寸法を調べると、四本のミナレットの基壇を含めた総寸法に、頂華を含むドームの深さを加えると、アブジャド数値法で「チハールヤール」(29)という語に相当する「420アルシュン」という数字が現れる。ハビーブ(30) という語に相当するアブジャド数値は「22」である。「フー」はアブジャド値で「11」、ムサンナー(対)の「フー」は「22」に相当し、これは真の存在であるアッラーの本質と、その顕現である「ハビーブ」を表す。131アルシュンであるドームの周長は「イスラーム」という語のアブジャド値である。アブー・バクル(231)、ウマル(310)、ウスマーン(661)、アリー(110)の合計のアブジャド数値は(1312)であり、1312÷4=328となる。ここでの「4」は、「四つの柱=四人の友」であると同時に、イスラームの「四つの柱」すなわち「チャール・リュクン」として知られる「シャリーア、タリーカ、マアリファ、ハキーカ」の隠喩でもある。『テズキレトゥル・ビュンヤーン』で言及されているように、「選ばれし愛される者と四人の友の姿になぞらえられていた」という文言の帰結は、「328+92(ムハンマドという語のアブジャド値)=420」となり、この表現によって二つの比喩(なぞらえ)がなされているのである。

セリミエでは、構造体を三方から囲む長方形の主構造の隅部がミナレットの基壇と基脚に固く結びつけられているため、ミナレットの見えるシルエットは、基脚の上から頂華までの部分によって与えられる。スレイマニエでは、ミナレットの見えるシルエットは基壇の上から頂華までである。見えるシルエットの長さは、スレイマニエについてはドームに近いミナレットにおいて、両モスクともに「ムハンマド」という名に相当する「92」アルシュンである。スレイマニエの中庭の隅にあるミナレットにおけるこの寸法は、「アッラー」という名に相当する「66」アルシュンである。(31)

これらの私たちの所見は、精密な実測図が存在しないため、あるいは疑念をもって受け止められるかもしれない。しかし、ごく些細な出来事でさえ詩の中でアブジャド数値法によって年代を詠み込み、とりわけディーヴァーン詩の修辞(マズムーン)に見られるように、一つの事柄を様々な形で「注釈し解釈することを好み、容器と中身の関係に注意を払い、隠喩、修辞、比喩を重んじる」オスマン社会の一員として、年齢においても芸術においても円熟に達したシナンのような芸術家が、テズキレ(回想録)にも表現されているように、自らの芸術において象徴による表現を好んだ可能性があると考えることは、誤りではないと私たちは確信している。実際、あらゆる文明において、物理的世界の彼方にある真理はすべて、象徴の深く豊かな言語によって表現されてきた。(32)この点で、正確で精密な実測図に基づいて行われる研究もまた興味深い結果をもたらしうると、今から言うことができる。

スレイマン大帝はスレイマニエのために、セリム2世はセリミエのために、それまでに見られなかったほどの額の資金を割り当てた。エヴリヤ・チェレビーの『旅行記(セヤハトナーメ)』の記録によれば、シナンはエヴリヤ・チェレビーの父である宮廷の金細工師長デルヴィシュ・メフメト・ズッリーに、セリミエについて次のように語ったという。

「—— いかなる君主も、これほど莫大な富を費やす勇気はもてないであろう。」

ミマール・シナンもまたこれに見劣りすることなく、精神的な個性を帯びたこれらの物質的な記念碑において、物質においても意味においても傑作を生み出したのである。

大建築家は、オスマン朝の征服、統治、学問、芸術の面で最も壮麗な時代に、大いなる建設の力の長として名声ある人物であったにもかかわらず、写本では自らを「ムール・ウ・ナートゥヴァーン」(力なき蟻)と、署名では「貧しきシナン、宮廷首席建築家」、楕円形の印章の中央にある署名では「貧しく卑しきシナン」、その縁には、

「Sermîmârân-ı hâssa müstmend
Bende-i miskîn kemîne derdmend」(33)

(貧しく無力な宮廷首席建築家、
悩める、取るに足らぬ、哀れなしもべ)
と自らを紹介し、こうして建築のみならず「謙虚さ」においても名匠であることを示したのである。
シナンを超えることはできるだろうか……。なぜできないことがあろう……。彼もまた人の子である。

「知識は評価されてこそのもの、
買い手なき品は無駄になる」

という考えのもと、民への奉仕を神への奉仕と心得たスレイマン大帝のような雇い主と、同じ精神をもち、愛と陶酔を情熱に込め、努力と没入をもって練り上げる建築家がいれば十分なのである。そうだ! シナンを超えることはできる。しかし彼の作品を超えることはできない。なぜなら大建築家は、頭にはハセキのターバン帽を戴き、背後には「これほど莫大な富を費やす勇気をもちうる」力を負い、背にはスレイマン大帝の「下賜品」である長衣(カフタン)をまとって建築家や職人たちのもとへ赴き、あまり細部に立ち入らない図面で自らの考えを示し説明し、石積み職人には「ここのアーチはミュステヴィー様式にせよ」、石工には「これらの柱と柱頭はミュジェヴヘリー様式にせよ」、ミフラーブやアーチ門をつくる石工の親方には「ムカルナス」を望むと告げ、「何某の段には房飾り、何某の列にはアーモンド、その間には鳥の足(カザヤウ)、末端には葉を」と言えば、それらの職人たちは求められたことを理解し、実行したのである。当時は製図ペンも、T定規も、調節可能な製図台も、昼光色の電球も、コンピューターもなかった……。時代はランプの時代であった……。今はどうだろう! もし建築家が知っていれば……そして座って考えれば……1/50の図面を正しくきちんと描けば……それでも足りない……1/1の詳細図が必要である。しかし「職人(!)」はそれも理解できず、1/1の型をつくって目の前に置いてやらねばならない……。当時のような手の習熟もないため、昔の職人がつくったものの半分ほどの技量で「作品(!)」が生み出される。当時は「手も働き、道具も働いた」。「手も誇り、技も評価された」。今では「道具が働き、手が誇っている……」。

今日、残念ながらドームとアーチはムスリムに属する象徴とみなされている。ドームを象徴たらしめるのはその「建築家」の技量であって、ドームやアーチそのものではない……。新しいモスクは、文化と趣味の堕落、理解と趣味の貧困の型にはまった見本として、――おそらくは変わりゆく世界の文化的・道徳的侵略への反発から――いわゆる「古典様式で」建てられている。これらの戯画的なモスクのドームやアーチ、ミナレットは、ありえない比例で建てられている。しかし、ドームやアーチは当時の組積造技術の必然としてつくられたのである。大シナンが今日の技術的可能性と多様な材料をもってしたら、どのような建物を建てただろうか。おそらく今日建てられているようなものではないだろう。シナンがこのような模倣、偏狭、型にはまった態度に一度たりとも陥らなかったことは、そのすべての作品とともに、彼が自らの名で建てさせたイスタンブール・イェニバフチェのミマール・シナン・メスジドのミナレットが証明している(図10参照)。セルジューク朝以来受け継がれてきたこれほど豊かな源泉の中で、円熟した古典的な建築空間の理解を、今日の材料と技術的可能性によって新たな 統合へと導くことはできないだろうか。私たちが所有する文化遺産の価値に気づき、その存続のために新たな統合を模索することが不可欠である。建築は社会の鏡であり、形の言語である。ある社会でいつであれ 混乱と価値の不明確さが始まれば、建築にもすぐにその現れが見られる。 自らを繰り返すだけで刷新しない文化は、堕落し、ついには消滅する運命にある。実際、オスマン文明においてもそうなり、本来の 文化による新たな統合の代わりに、文化的・道徳的侵略にさらされて、借り物の輸入文化が取って代わったのである。(34)長年にわたり、シナンが「デヴシルメ(徴用された少年)」出身であることから出発して、彼がトルコ系のキリスト教徒であったのか、ギリシア人、アルメニア人、アルバニア人なのか、あるいはオーストリア系なのかについて様々な主張がなされてきた。
本当の問題はシナンの民族やデヴシルメ出身であることではなく、大建築家が何を成し遂げたのか、そして今日の存在しないトルコ建築をいかにしてシナンへと「徴用」するかである! 「私たちは何者であったのか、今は何者なのか」という自省を行うべき、人格の危機にある現代人が、私たちが溺れている「無文化」の包囲からいかにして抜け出すかの方策を探るとき、過去の比類ない文明の奇跡の結晶であるシナンのような記念碑的芸術家や、スレイマニエやセリミエのような傑作が、私たちのこの躍進の意欲と力の源泉となるであろう。

注:

  1. Ayn-ı â'yân-ı mühendisîn (技術者たちの瞳)、Zeyn-i erkân-ı müessisîn (諸機関の重鎮たちの飾り)、Mîmâr-ı sultanî (スルタンの建築家)、Muallim-î hâkanî (君主の師)、Üstâd-ı esâtizetü'z-zemân (時代の名匠たちの名匠)、Reis-î cehâbizeti'd-devrân (時代のすべての芸術家の長)、Öklidisi'l-asr ve'l-avân (世紀と時代のユークリッド)、Mühendisân-ı devrân (時代の技術者)、Pesendîde-i cihan (世界に称賛される者)、Mîmâr-ı bî-akrân (並ぶ者なき建築家)、Sermîmârân (建築家たちの長)。ミマール・シナンは、テズキレや古い史料では多くの場合「シナン・アガ」や「コジャ・ミマール(大建築家)」として登場する。シナンは自らのワクフ(寄進)文書において、「El-mahfûf bî sunûf-i avâtıfi'l-meliki'l-mennân」(恩恵豊かな王たちの贈り物に囲まれた者)、また「Sinan Ağa İbn-i Abdurrahman」(アブドゥッラフマーンの子シナン・アガ)とも記されている。
  2. Metin Sözen ほか、『Türk Mîmârisi'nin Gelişimi ve Mimar Sinan』(トルコ建築の発展とミマール・シナン)、イスタンブール、1975年、159頁。
  3. İhsan Bingüler、『Mimar Sinan ve Süleymâniye』(ミマール・シナンとスレイマニエ)。
  4. M. Hilmi Şenalp、『Mîmar Sinan Kaynak Eserleri ve Çalışma Ortamı』(ミマール・シナンの史料と作業環境)、未刊行修士論文、イスタンブール、1984年。
  5. Ashâb-ı tevârih kavli üzere =歴史家たちの理解によれば。
  6. Bistûn(ビーストゥーン)、フェルハードが穿ったと伝えられる山の名である。
  7. 線分を最も美しい比で二分するために必要な数(1.618)は「黄金比」と呼ばれる。この比は、人体や植物をはじめ、自然のあらゆる美しい形に見られることから「神の数」とも呼ばれてきた。黄金分割や黄金断面としても知られる。
  8. Usûl-i Mîmârî-i Osmânî(オスマン建築の諸原則)、1873年、11頁。建築単位の適用方法。スルタン・アブデュルアズィズの時代にウィーン万国博覧会のために準備されたこの著作では、図面によって表現されている。本書は第一次国民建築運動とみなされる時期の典拠となった。いくつかの誤った記述を含むにもかかわらず、トルコ芸術について書かれた最初の本格的な著作である。
  9. 「文様を讃えることは文様師を讃えることであり、文様を貶めることは文様師を貶めることである。」
  10. 砂時計から落ちる砂粒が水平面となす角度。
  11. Süleyman Ateş、『Kur'ân-ı Kerîm Meâli』(聖クルアーン意訳)、1974年、イスタンブール。
  12. Erzurumlu İbrahim Hakkı、『Mârifetnâme』、F. Meyan訳、1981年、イスタンブール、29頁。
  13. 「インサーン(人間)」という語は、「友情、親しみ、愛着をもつこと」を意味する「ユンスィイェト」という語と同じ語根である。
  14. Erzurumlu İ. Hakkı、前掲書、37頁。
  15. Muhammed Hamîdullah、『İslâm Müesseselerine Giriş』(イスラーム諸制度入門)、Süreyya Sırma訳、1980年、イスタンブール、32頁。
  16. カアバの覆いは「シターレ・イ・シェリーフェ」と呼ばれる。シターレは「セトル(覆い)」という語根に由来し、Star(星)という語の源も「セトル」という語である。
  17. 「聖なる館の敷地は狭められ、6ズィラーほどが外に残された。ヒジュルの場所は39ズィラーである。そのうち6ズィラーは異論なくカアバの一部とみなされる」。ブハーリー、『Sahih-i Buhârî Muhtasarı Tecrîd-i Sarîh Tercemesi』(サヒーフ・ブハーリー抄録 タジュリード・サリーフ翻訳)、Kâmil Miras訳、1969年、アンカラ、第6巻、32、40頁。ジャーヒリーヤ時代、預言者がクライシュ族の仲裁者となって黒石(ハジャル・アスワド)を元の場所に据えることができた出来事は、この再建の後に起こった。
  18. ブハーリー、前掲書、32、17、18頁。
  19. ブハーリー、前掲書、40頁。
  20. ブハーリー、前掲書、19頁。
  21. Muhyîddin-i Arabî(イブン・アラビー)、『Fusûs'ül-Hikem』(叡智の台座)、M. Nuri Gençosman訳、1971年、イスタンブール、181頁。
  22. 『İslâm Ansiklopedisi』(イスラーム百科事典)、「カアバ」項、第6巻、5、6頁。
  23. ムラト3世の時代に赴いた際、カアバの修復のための計画を準備したが、それを実施することは、彼の弟子でスルタンアフメト・モスクの建築家であるセデフカール・メフメト・アガに委ねられることとなった。『Uzunçarşılı'ya Armağan』(ウズンチャルシュル記念論文集)、「Risâle-i Mîmâriye(建築論)」、O. Ş. Gökyay訳、148頁。
  24. Rıfkı Melûl Meriç、『Mîmar Sinan Hayatı, Eseri』(ミマール・シナン その生涯と作品)、1965年、アンカラ、55頁。
  25. Abdülkerîm Ceylî(アブドゥルケリム・ジーリー)、『İnsan-ı Kâmil』(完全人間)、A. Akçiçek訳、イスタンブール、1974年、416、438頁。また、山章(52章4、5節)では「バイト・アル・マアムール」と「サクフ・マルフー」(高められた天井)にかけて誓いが立てられている。アブドゥルケリム・ジーリーはこれらの節について、「サクフ・マルフー(高められた天井)という表現については……神的属性を帯びた崇高な場所である。その場所はこの心の中にある。至高なるアッラーが心を繁栄する館になぞらえられたからには、神的真理もまたそのために高められた天井……でなければならない。天井は館の一部とみなされる。繁栄する館の天井とは神性であり、館とは心である」という神秘主義的解釈を示している(417頁)。
  26. アルシュン=ズィラー・イ・ミマーリー=ズィラー=75.7738 cm。1アルシュン=24ボウン(ビュルジュメ)=60パルマク、1ボウン=2.5パルマク、1パルマク=10イプリク、1イプリク=100本の蜘蛛の糸(タール・ı・アンケブート)。別の取り方では、12ノクタ=1ハット、12ハット=1パルマク、12パルマク=1カデム(足)、2カデム=1アルシュン(ズィラー)、2.5アルシュン=1クラチ(尋)である。1587年以後は1アルシュン=24パルマクとされた。
  27. 「己が本質をよく見よ、汝は世界の精髄なり。宇宙の瞳たる人間なり、汝は。」
  28. M. Hilmi Şenalp、前掲書。
  29. チハールヤール=四人のカリフ。
  30. ハビーブ=愛される者、最愛の人。
  31. 「ラーレ(チューリップ)」という語は、旧文字(アラビア文字)では「アッラー」という名と同じ文字で書かれるため、 そのアブジャド値も66となる。このためオスマン装飾において最も多く用いられ、愛された花となった。逆から読むと「ヒラール(三日月)」となり、ヒラールのアブジャド値も66である。
  32. キリスト教の象徴である十字架(サリーブ)や十字を切ることがイエスと三位一体の教義を表すように、十字架は教会建築において独立した平面形式としても用いられてきた。テズキレの記述から出発して私たちが得たこれらの結果は、既存の実測図を考慮して計算されたものである。アティッラ・アルパトが『Türk Dünyası Araştırmaları(トルコ世界研究)』1984年2月号をはじめ様々な所で発表した、「ボウン」を単位とみなす寸法とモジュール秩序に関する研究には、私見では誤りがある。1アルシュンの1/24である3.15 cmの長さを基準として無理な計算を行い、カアバに至るまですべての古典モスクにおいて、ラテン式アブジャド計算で「イエス」に相当する318という数字を見いだそうとする努力は、理解できる態度ではない。
  33. この印章は様々に読まれてきた。イブラヒム・ハック・コンヤルは著書「Mimar Koca Sinan」の中で、フアト・キョプリュリュ、アルベール・ガブリエルらが準備した「Sinan-Hayatı-Eserleri」という本では「ser」という語が「mihir」と、「hâssa」という語が「hemîşe」と読まれ、ザリフ・オルグンの「Arkitekt」誌刊行の「Hâssa Mîmârları」という著作では「müstmend」という語が「müstesna」と読まれていると述べ、正しくは 「Bende-i miskîn kemîne derdmend, Ser-i mîmârân-ı hassa müstmend」であると記している。韻律の点からもこの読み方は正しい。ただし、下の句が上に来るべきである。
  34. M. Hilmi Şenalp、「Kula」、『Lâle』、第2号、35頁。 

Muharrem Hilmi Şenalp

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